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ラファエル・アルトゥニアン:ソルトレイクでミーシン、タラソワと並んで立ったとき、これが私のキャリアすべてだと思った

浅田真央のコーチをしていたラファエル・アルトゥニアンのインタビューがSportStoriesに掲載されていましたので、主に浅田部分を抜粋して紹介します。アメリカでの指導についての話がされていますね。

* * *

ラファエル・アルトゥニアン:ガイシニクに言ったんだ、飲んでない、ミシェル・クワンの練習に行くところだ、ってね。


http://sportstories.rsport.ru/ss_person/20150105/795794183.html

(前略)
(ユリヤ・リプニツカヤの人気という現象は何で説明できるのか、どうお考えでしょうか。)
おそらく、原因のわからない多くの問題と同じような、コントロール不能なプロセスなんだろう。浅田真央がアメリカの私のところまで来たのもまさに同じ理由だ。日本ではただ歩いたりするところもなかった。彼女の人気があまりにクレイジーだったから、私が彼女を2-3年指導しただけで日本人は私の名前を知るようになったくらいだ。どうしてまさに浅田がそこまで祭り上げられたのかはわからない。そしておそらく、リプニツカヤも同じような経緯になってしまったんだろう。次の女の子がまた同じようになるのかどうかはわからないが、もっと祭りあげられてしまうかもしれないね。

(中略)

(ミシェル・クワンの指導には厳しい手法は使わなくて済んだと)
まったく。自分の仕事をというものを知っていた。私も彼女と仕事をするようになるまでに自分の仕事を知ることができた。ソ連にいたときの経験がとても役に立った。アメリカに移るまで25年も仕事をしていたからね。

人生は簡単には行かなかったよ、周辺の仕事から始めて、タラソワみたいな良い意味での「怪物」たちと戦わなくちゃならなかったり。繰り返すが、他意のない良い意味でだ。ターニャ(タラソワ)は私をとても助けてくれたし、今でも良い関係にある。

それでその後、14年前、アメリカに来ることになったが、それまでの経験すべてが力強く助けになった。私には、日本の浅田真央、カナダのジェフリー・バトル、アメリカのミシェル・クワンと、3人のナショナル・チャンピオンがいた。彼らが私のところに来たから、私は彼らと仕事をすることができた。ソ連やロシアの経験がなかったら、おそらくそんなことはできなかっただろう。

(中略)

ロシアでは1人のスケーターを1日3-4時間見ていた。アメリカではそんなことは不可能だ。誰もその時間分の給料を払ってくれないからね。浅田真央は、もし彼女が望めばそうできたかもしれないけど、そんなことはしなかった。彼女とは1日2時間の仕事だった。ミシェル・クワンとは1時間か40分、ジェフリー・バトルとは20分のときもあったし、40分のときもあった。

(中略)

(2002年ローザンヌでのユーロを思い出すと、もしフィギュアスケートに不公平さの具現があったとすれば、クリーンに滑ったアブトが2位になったことでしょう。ヤグディンが2度転倒したにもかかわらず9人中6人のジャッジが1位としました。)
多くの人がそのことに言及している。しかし私は哲学的にその件に対処している。アブトが怪我もせず、ローザンヌで見せたような滑りを何度かできていれば、ジャッジも彼に対して違う態度をとったのかもしれない。

フィギュアスケートには不公平なところは多いものだ。新システムでもそうだ。公平という主題をもって考えだされたものだけど、実際は同じものが残っている。ただ数字が違うだけだ。ほら、ここがマイナスで、ここがプラスで、だからその順位じゃなくてこの順位なんだと見せてくれる。でもジャッジがどんなふうに行われているか、何を話すべきかなんてことは我々も知っている。

良い表現がある。「スケーターは滑らなくてはいけない、コーチは指導しなくてはいけない、ジャッジはジャッジをしなければならない」とね。それがすべて、これが私の信条だ。

フランク・キャロルや佐藤信夫、ピーター・グリュッターといった、年配のコーチたちと話すのが好きだ。自分はまだ若いと思ってるけどね(笑)。彼らはみな賢い。佐藤は私にこう言った。「ラファエル、フィギュアスケートに起こっていることに注意を向けていたら、もうだいぶ前にスケートを辞めてただろうね」とね。それで私もそういったことには注意を払っていない。誰がどのようにジャッジをしているかなんて知らないけど、私はフィギュアスケートをやっている。たぶん、こういったアプローチをしているから、していることを続けられているんじゃないかな。

(中略)

(浅田真央についてはこうおっしゃられていましたね。「彼女がスケートをしないのは、たぶん寝てる時だけだ」と。)
そのとおりだよ。彼女は自分で1日に8時間も練習していた。「なんでそんなにたくさん練習するんだ?」とか訊いたことがある。浅田は、「ただ滑るのが好きなだけ」と答えた。I love itってね(笑)。彼女はレイクアローヘッドに来て、巨大な家を借りてたよ。たぶん高かっただろうね。でも少し経ったら、小さな家に引っ越したんだ。「どうしてあそこから引っ越したの?」と訊いたら、「どうせ家にはほとんどいない。9時に出て、9時に戻るから」と。

ミシェル・クワンはトレーニング着を穴が開くまで着て滑っていた。「何か新しいのを買ったら?」と彼女に言うと、「いいえ、これは私の2枚目の皮膚だから。快適すぎるの」と答えたんだ。こんなこと、想像できるか?どんなことにミシェルや真央が余計なお金を使うんだろうか?そんなのはなかった。自分のしていることに対してあまりにやる気があったから、自分の周りのことにはほとんど関心をもってなかったんだ。これが本物のチャンピオンだね。


(中略)

(ミシェルや真央のようなレベルのスケーターとまた出会いたいと思いますか?)
ねえ、こんな昔の絵を思い出すんだ。テレビでフィギュアスケートが流れていて、ウォームアップが行われている。壁際にはチャイコフスカヤとタラソワが立っているのが見える。私には、いつか彼女たちの隣に立ちたいという夢があった。それが叶ったんだ。ソルトレイクシティのオリンピックで、最終グループの練習のときに、プルシェンコを引き上げたミーシン、ヤグディンとタラソワ、そして私とアブトだ。そのとき、これが私のキャリアすべての瞬間だと理解したんだ。

今は、何かもっとしたいことはないかという問いは、自分にとって存在しない。最近よく言ってるんだ。「神よ、感謝いたします。おそらく、私が欲したものはすべていただきました」と。私は幸せだよ、これ以上特に何も必要ない。

(終)

テーマ: フィギュアスケート | ジャンル: スポーツ

ラファエル・アルトゥニヤンのインタ(前):浅田との別れ、サーシャ・コーエンとミシェル・クワン

ラファエル・アルトゥニヤンがロシアのプレスにインタビューをしていましたが、浅田について語っています。私はにわかファンなので経緯をよく知らなかったのですが、アルトゥニヤンと浅田の別れは謎めいていたようですね。このインタビューでその謎の一部が解けるかもしれません。

インタビューのタイトルは、「プルシェンコは知っている、ということを私は知っている」ですが、前半にはプルシェンコは出てこない(というか、全編通して浅田の話がメイン)ので、管理人が仮に表記のようなタイトルを付けています。

後編にプルシェンコやワグナー、キムユナと浅田が出てきます。こちらも鋭意抄訳中です。

では、前編の抄訳どぞー。

* * *

ラファエル・アルトゥニヤン「プルシェンコは知っている、といことを私は知っている」
http://www.sport-express.ru/velena/reviews/38117/
エレナ・ヴァイツェホフスカヤ

アルトゥニヤンはロシアチャンピオンのアレクサンドル・アブト、アメリカチャンピオンのサーシャ・コーエンとミシェル・クワンのコーチをしていた。2008年には、2人の教え子である浅田真央とジェフリー・バトルが同時に世界選手権の金メダルに輝いた。ラファエル・アルトゥニヤンは自分について簡単にこう言う:「フィギュアスケーターの調子が本当に悪くなると、119番のように私に電話をかけてくる」


コーエン、キャロル、ニックス


彼女は本当に小さかった・・・(一瞬沈黙し、思い出したかのように微笑んだ)。でもまさに彼女が私を「プロデュース」して、レイク・アローヘッドでフランク・キャロルの代わりとしてリンクのオーナーに推薦してくれたんだ。でもその時はサーシャを教えるのは断ったんだが。もうアメリカのコーチだと自分では思っていたから、前任者の公的な同意なしにスケーターを引き受けられなかった。コーエンが大笑いして、「どうして?私が貴方をここに呼んだのに、私のことを断るわけ?」と言ったのを覚えている。しかし彼女自身が、ロサンゼルスで一緒にやっていたジョン・ニックスと話を付けた。ニックスはもうその時で70を超えていたが、私と会うために車に乗って自分でレイク・アローヘッドに来た。私の教え方が気に入った、サーシャが彼の所だけでなく私のところでも練習することに反対しないと言った。こうして彼女は私のところへも来るようになった。1年か1年半かして、彼女はニックスのところを出て私とだけ練習したいと宣言した。私は断った。

(アメリカの倫理感を犯すのが怖かったのですか?)
いや、それについては自分の感覚のほうが私にとってははるかに重要だ。私を信じてスケーターを預けてくれた人から、いったいどうして彼女を取り上げることができるだろうか?もしサーシャに「いいよ」と言ってしまっていたら、一生自分の中で拭えなかっただろう。

コーエンはいずれにせよ去っていった。タチヤナ・タラソワのところへ。それからロビン・ワグナーに移って、またニックスに戻って、それから滑るのをやめてしまった。しばらく経ってまた私のところに電話してきて、バンクーバー・オリンピックに向けてコーチをしてくれないかと依頼してきた。練習に来るようになったが、考えを変えたようだ。私が必要不可欠だと考えた練習の時間が単純にない、と彼女は言った。


クワン


(コーエンの後はミシェル・クワンが来ましたね)
そう。彼女は最初単に技術的なサポートを求めて来た。その時彼女はすべてのジャンプの調子が狂っていて、全体的な状況も改善が望まれるものだった。全部で2年一緒に練習したかな。オレグ・エプシュタインがデトロイトから電話してきて、「ラフィック、練習でミシェルに怒鳴ってるって本当かい?街中みんな噂してるぜ」と訊いてきたのを覚えている。

実際、そのときはクワンにはかなり厳しく対処していた。でも、彼女は素晴らしいプロフェッショナルと言わざるを得ない。練習でも、私に対する態度でもだ。彼女がリンク開始の15分前に来たことがある。滑る前にはもっとよくウォームアップをすべきだと注意したんだ。そうしたら、ミシェルは私を見てこう言った:「ねえ、私が家でお茶を飲んでたとでも思ってる?」

彼女の家にはホールがあって、ミシェルは練習前にはいつもしっかりと準備をしていたようなんだ。ウォームアップとストレッチ。ミシェルが私のところに来た時にはすでに大きな怪我をしていたから、プログラムを「裁断する」ためには過去のものから作らなければならなかった。でも、痛みのために何も出来ない練習もあった。そんなときは彼女は黙ってサークルを続けていた。


一生の教訓


(浅田真央のコーチをを続けられなかったことを残念に思ったことはありますか?)
今でも残念だ。最後に彼女といたのは2007年12月だった。まずトリノでグランプリ・ファイナルがあって、そこで浅田はFSでトップ、総合で2位となった。それから全日本選手権。その後アメリカへと戻った。真央は1月14日に私のところに来ると合意していた。ヨーテボリでの世界選手権までの練習スケジュールをすでに非常に詳細に決められていたが、決められた時までに真央は現れなかった。彼女から電話で、私が彼女のところにこれないかとお願いをされた。私はもちろんできなかった。ジェフリー・バトルとの練習があったからだ。しかしアシスタントを日本に送った。真央にはこれまで通りレイク・アローヘッドで待つと伝えた。

事実、真央の日本での練習状況は常に良くなかった。どのスターの周りにもある、注意を逸らせるような要素があまりにも多かったからだ。真央もそれを気に入ってなくて、自分に閉じこもり、その状態を氷へと移してしまった。いずれにせよ、私があまりに厳しい条件を突き付けてしまったということに尽きる。彼女が戻ってくるか、これ以上コーチをしないかのどちらかだった。

後になって知ったのだが、浅田の母親にちょうどガンが診断されたという。家族はこのことを秘密にしていて、私にも何も言わなかった。しかし、もちろん、こういう場合には私も自分で日本に行く機会を見つけるべきだった。少なくともこんなに厳しい条件を突きつけることはなかった。

このことから私は多くを学んだ。特に、コーチは原因を追求せずに決定を下していはいけないということだ。浅田が私の元を去ったのではなく、私が彼女に去ることを強制したことになる。彼女はそれを最後まで望んでいなかったのに。世界選手権で、フリーが始まるまでプロトコルには浅田の隣に私の名前があったくらいだ。真央は私がジェフリー・バトルとともにヨーテボリに来て、彼女が滑るときにフェンスのところに立ってくれると考えていたのだろう。しかし私はスウェーデンにも来なかった。

(なぜでしょう?)
まさにリンク・サイドに立つといことは、浅田との関係を再開するということだと理解してたからだ。簡単に言うと、原則に従ったということだ。バカみたいに。こんな例はフィギュアスケートの歴史上起こったことはなかったと思う。教え子2人が世界チャンピオンになったのに、コーチはリンクサイドにもいないという。

つづく


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