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稀代のジャンパー、エリザヴェータ・トゥクタムィシェワ(前)ミーシンの指導を受けるようになった経緯

本日12月17日は、リーザことエリザヴェータ・トゥクタムィシェワの18歳の誕生日です!!!!おめでとうございます!!!

というわけで、PROSPORTが、これまでのインタビューなどから彼女の歴史についてまとめて紹介していましたので、前後編(たぶん)で紹介します。

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稀代のジャンパー、エリザヴェータ・トゥクタムィシェワ


http://prosport-online.ru/articles/tukhtamysheva226
マリーナ・クルィロワ


エリザヴェータ・トゥクタムィシェワは、14歳になり最初のグランプリ大会で優勝し、自分の名前を皆に知らしめた。

「名前にはあまり興味が無い」と、よく名前を間違って紹介されるのではと質問したときにリーザは話していた。「知ってるのは、この苗字はタタールのもので、中世に「トフタムィシ」というハンがあったということだけ。たぶん、そこから全部来てるんだと思う。」

リーザ自身は、14歳になるまで両親と妹と一緒にグラゾフで暮らしていた。ウドムルト共和国の最北にあり、モスクワからは1000km強の場所にある。しかし、リーザは違う単位を使うことに慣れている。サンクト・ペテルブルクから27時間。まさにこれだけの時間を電車で過ごして、アレクセイ・ミーシンの指導に辿り着いていたのだ。そして、2週間ごとに、オリンピック金メダリストのエヴゲニー・プルシェンコは、自身のコーチをこの期待されるスケーターと分け合うことになった。

ミーシンはベルゴロドの大会でリーザを見た。それから、リーザと練習していたスヴェトラーナ・ヴェレテンニコワに、リーザを自分の指導に連れてくるよう依頼した。

「アレクセイ・ニコラエヴィチ(・ミーシン)が私の中に何を見たのかはわからない」と、リーザは将来のコーチとの最初の面会を思い出す。「まだ不器用で、ひどく稚拙だったし、エレメンツ実施の技術も、スケーティング技術も違ってた。グラゾフにはリンクが1つしかなくて、フィギュアスケーターも、ホッケー選手も、単に好きで滑っている人も、みんなそこで練習してた。リンクが破滅的に足りなかった。でも私たちは陸上トレーニングをたくさんしてたから、高くジャンプすることはできた。アレクセイ・ニコラエヴィチ(・ミーシン)は、たぶん、私から何がでてくるのか、試してみようと決めたんだと思う。それで、彼のところに練習に来るよう提案してきた。それから、私がかなり早く学習することや、多かれ少なかれ美しく腕を動かしてなんとか滑ることができるってわかったみたい」。

2年後、リーザはほぼすべてのジャンプを習得し、その中には最も難しい3回転半のアクセルも含まれていた。しかしこれだけでは、ミーシンがすぐに彼女をサンクト・ペテルブルクに移り住むよう招待するには足りなかったようだ。数年間、彼はトゥクタムィシェワをよく観察するだけだった。

「最初にペテルブルクに行ってから、練習にはもっと真面目に取り組まないといけないんだってわかった。1ヶ月半、スヴェトラーナ・ミハイロヴナ(・ヴェレテンニコワ)と一緒にグラゾフで練習してたけど、リンクをより頻繁に使えるようになった。残りの時間は、「ユビレイヌィ(註:サンクト・ペテルブルクのホームリンク)」で過ごした。ちょっと大変だった。寮に住んだり、ホテルに泊まったり。寮の方が便利だったくらい。キッチンがあって、せめてちゃんとした朝食、なんかカーシャ(穀物のおかゆ)とかは作れたし。でも何よりも大変だったのは、家族、両親と離れて暮らさなくちゃいけないことだった」。

アレクセイ・ニコラエヴィチ(・ミーシン)が最終的に決断を下したのは5年後のことで、家族全員と一緒にサンクト・ペテルブルクに引っ越すよう提案したのだ。引っ越しは母親が担当した。この直前に、リーザの家族にひどく悲しいことがあった。父親が亡くなったのだ。

「そのとき、アレクセイ・ニコラエヴィチ(・ミーシン)は私たちをとても助けてくれた。部屋も見つけてくれて。私はほとんどの時間を合宿や大会で過ごしてた。ママとジェンカが、妹なんだけど、荷物を運んでくれて。私が新しい部屋に着いたときには、もう多かれ少なかれほとんど準備ができていた。ママが後で教えてくれたんだけど、車2台に私たちの荷物は全部乗ったんだって。」

引っ越しは良い方向に向かった。リーザはエヴゲニー・プルシェンコやアルトゥル・ガチンスキーと同じグループで練習するようになり、アレクセイ・ミーシンが常に監督してくれるようになった。

「小さいけど、とっても仲の良いグループ。だいたい、男の子とか大人の男性と練習するのは楽だって気づいた。たとえば、アルトゥルとはよく喋ってる。楽だし、面白い。アレクセイ・ニコラエヴィチ(・ミーシン)の指導のもとで練習するのは、歓びばかり。端から見ると、彼は厳しくて、無愛想に見えるかもしれない。でも本当はぜんぜん違うの。とても良い人で、いつでも助けてくれたり、支えてくれたりする準備がある。なんでも1人では決めずに、どうやったら良くなるのか、どうしてそう考えるのかを話して、説明しようとしてくれる。コーチたちや振付師たちが集まってすべてを議論するの。幸いなことに、プログラムを滑るのは私で、私が気に入らない音楽で滑ることができないということをコーチたちは理解してくれている。最近アコースティック・ロックにハマッて、ガンズ・アンド・ローゼスが大好きなんだけど、将来のプログラムに彼らの曲の何かを提案しようと思ってるくらい。アレクセイ・ニコラエヴィチ(・ミーシン)は私がロックを好きなことも知っていて、スコーピオンズが「ユビレイヌィ」でコンサートをしたときにはチケットを取ってくれたの」。

続く


テーマ: フィギュアスケート | ジャンル: スポーツ

ロシア記事:男の歴史 - ヴォロノフ・フェルナンデス・羽生

男の歴史 - フィギュアスケート・グランプリファイナルでセルゲイ・ヴォロノフが3位に


http://www.gazeta.ru/sport/2014/12/14/a_6341761.shtml
エカテリーナ・クリニチェワ


バルセロナでのフィギュアスケート・グランプリファイナルが終了した。ロシア代表への最後のメダルをもたらしたのはセルゲイ・ヴォロノフだった。ソチ・オリンピック金メダリストの羽生結弦と、2度の欧州選手権金メダリストのハヴィエル・フェルナンデスの2人だけに譲って。

グランプリファイナル男子の表彰者は3人の背後には、それぞれの経緯があった。

例えば、セルゲイ・ヴォロノフ。皮肉屋で、その素晴らしく整えられた言葉遣いのためジャーナリストにとても愛されている。彼の人生にフィギュアスケートがなかったとしても、演説の芸術と、公衆の面前に立つ能力を要求するような何らかの平和な職業を簡単に見つけられただろう。

27歳でヴォロノフはすでに、何人かでも十分であるような数のキャリアの再スタートを1人で経験している。多数のコーチを変えてきているが、その中にはアレクセイ・ウルマノフやニコライ・モロゾフもいる。彼らとの協力関係は短く、かなり失敗に終わり、あやうくセルゲイのキャリアを永遠に葬り去るところだった。しかし、誰とも完全な相互理解を見つけることはできなかった。もしかすると、自分に十分な信頼を見ていなかったのかもしれない。

数年前、ヴォロノフはエテリ・トゥトベリゼとセルゲイ・ドゥダコフのチームに入ることになった。そしてここでようやく意見の一致が起こったのだ。ジャンプを取り戻し、2つ目の4回転を積極的に試すようになり、そして、まだ安定はしていないが、自身にとって最大の問題であった3Lzへの対処を学んだ。アカデミックさは影を潜め、かつてトゥトベリゼが言っていたように、「足さばきにおけるより大きな語彙力」を身につけた。現代の要素的フィギュアスケートにおいてかなり必要不可欠な質の高いつなぎを。

そして、一番重要なのは、可能性と練習する刺激を得たことだ。彼の世代は見通しがなく、すでに天井に達したと多くが公然と考えていることに注意を向けずに。

ヴォロノフの昨シーズンはユーロで終わったが、そこでいきなり2位となった。しかし、オリンピックにも、日本でのワールドにもセルゲイはあえて送られず、チケットはエヴゲニー・プルシェンコとマクシム・コフトゥンへと与えられた。ヴォロノフには、今後も練習するための刺激として、ソチのゲスト登録だけが残された。

昨日、有名なバイアスロンのコメンテイターが話すように、疲れを見せる中でセルゲイは、心から、いつもの皮肉の影を見せずに、スケートなし、リンクでは生きられないと発言した。このことは、多くのことを説明してくれた。

今シーズン、ヴォロノフはトゥクタムィシェワとだいたい同じ道を進んできた。プレシーズン・オープン・スケートで観衆の前に最初に現れたときから、成長の見通しがあり、信頼でき、華やかかつ安定したフィギュアスケーターとしての評判を、レンガのように新たに積み上げながら。このグランプリファイナルに進出するためだけに、彼にとって、4回ミスなく滑ることが必要だった。おそらく、バルセロナでのファイナル出場者のだれよりも多い回数が。またチャンスを待ちうけながら、スペインのリンクでさらに2回。そして、チャンスをものにした。

銀メダルはハヴィエル・フェルナンデスで、ショートの5位から総合2位へと駆け上った。たった数年の間に、ニコライ・モロゾフのチームで「ヌー、パガジー!」※の曲で滑っていたひょうきんなスペイン・ボーイから、ソチ・オリンピックのメダル候補にまで駆け抜けたスケーターだ。彼をそうしたのは、あのカナダのコーチ、ブライアン・オーサー。

※管理人註:「ヌー、パガジー!」はソ連・ロシアのアニメ。Wikipedia
 ハヴィエルが滑ってた映像は↓
 http://moscowm.blog61.fc2.com/blog-entry-77.html

グランプリファイナルの直前に、ハヴィと有名な元スケーターで、2度のワールド金メダリストである日本の安藤美姫は婚約を発表した(※ママ)。つまり、この魅惑のマドリード出身のハヴィは、愛する女性との人としての幸せも手に入れたということだ。この幸せに向かってかなり長い間あたためてきたとも言われている。今や安藤は、感動的に、同時に彼女らしくよけいな甘さもなく、SNSでフェルナンデスを応援している。

スペインにとって国のスケーターの成功がどれだけ大きな意味を持つのかについては、こんなエピソードでもわかる。ジャーナリストの1人が大会終了の記者会見でこんな質問をした。「どうかスペイン語で質問させてください。グランプリファイナルの終わりに、母語で話す理由と機会ができたのは初めてなので…。」

そして最後に、優勝した羽生結弦だ。ソチ・オリンピック金メダリストで、日本の幻想的な氷上のピーターパン、その純粋さで魅了する男の子は、自分の限界を超えた。羽生はこのファイナルにもう少しで進出できないところだったが、ホームでのグランプリ大会で少し意図的にファイナルに引っ張りだされた。

このブライアン・オーサーの教え子は、最初の上海大会のフリー前のウォームアップで中国人スケーターと激突し、その後の回復が間に合わず、大阪大会にはバラバラの状態であった。割れた頭と、かなり深刻な怪我と隣合わせで滑った上海大会と同様だった。

バルセロナで羽生はこれ以上ないくらい調子よく見え、ショートでトップをとり、フリーでも1度しか転倒せず、しかもそれは終盤にかけてだった。いつか、勝ち続けるためには、転倒をやめなくてはいけなくなるだろう。しかしこの問題はより遠い未来のものだ。今のところ、羽生が長期間の治療のために離れることを望まず、シーズンの前半に見せていた少し破滅的な献身は、感動を呼び起こさずにはいられない。

2人目のロシア人であるマクシム・コフトゥンも、この上位3名の中に入り得た。しかし、フリーの最初の4回転の代わりに2回転を跳んでしまい、この1つのエレメントで10点以上を失った。その後あまりに失望していたのか、記者のそばに立ち止まらずに通り過ぎたが、普段はこんなことはない。

ついさきほどのテレビへのコメントで、最後まで戦ったとマクシムは語った。そして、評価に対するいくつかの疑問についても発言している。

テーマ: フィギュアスケート | ジャンル: スポーツ