無料アクセス解析

プルシェンコの言葉で見るキャリア:『ジェーニャ、もう十分だ。もう十分に滑った!』と神様がおっしゃった

昨日、エヴゲニー・プルシェンコが引退を表明しましたが、プルシェンコの言葉でキャリアを概観した記事があったので紹介します。元記事の方には写真もありますので御覧ください。






「『ジェーニャ、もう十分だ。もう十分に滑った!』と神様がおっしゃった」引用で見るプルシェンコのキャリア


http://www.sport-express.ru/figure-skating/reviews/bog-mne-skazal-zhenya-hvatit-hvatit-katatsya-karera-plyuschenko-v-citatah-1237200/
マリヤ・マルコワ / Sport Express / 2017/3/31


1998年3月。15歳のエヴゲニー・プルシェンコは欧州選手権で銀メダルを獲得したが、長野オリンピックの出場権は、悲しいことながら、それよりも少し前に決定されていた。プルシェンコは世界選手権にも出場できなかった。

『毎日、ユビレイニーに練習に来ては、思った。「なぜ彼らがあの場所にいるのに、僕はここにいるのか?」しかし、舞台を作り上げて目に涙を浮かべるのは、同意してくれるだろうが、誰にとっても愚かなことだ。しかも、僕は他人に対する面当てに自分の耳を噛み切るような種類の人間だ。どの大会にも出られないとわかったとき、自分を練習で拷問にかけることにした。いつもリンクからなんとか這い出るような状態だった。4回転ジャンプが僕のメニューの中でまさに自慢の一品となった。毎日5-6回は見事な4回転を跳んでいた。想像してみてください。世界選手権か欧州選手権に、僕は白い燕尾服で登場する。つまり、クワドループを跳ぶんだ。観客は大声で泣き叫び、ライバルたちはショック状態で、僕は金メダル。そして幕が降りる。どう?』




2001年11月。グランプリ大会で、エレーナ・ベレジナヤ/アントン・シハルリッゼ、イリーナ・スルツカヤとエヴゲニー・プルシェンコが優勝した。前年の(そしてまだ1回目の)世界選手権金メダリストであるプルシェンコは、実存するジャンプの中で最も難しい4回転ルッツを競技会で初めて跳ぼうとした。ジャンプは決まらなかった。トリノ・オリンピックまで、あと3ヶ月…。

『僕は愛されていて、それにたいして感謝している。もしオリンピックで負けても、その愛を減じることはないと思う。どんなスケーターだって、観客の反応が大切だ。もしかすると、本当にメダルよりも大切かもしれない。』




2002年11月。ソルトレイクシティ・オリンピックでの優勝後に引退したアレクセイ・ヤグディンのいない中、プルシェンコが男子シングルの「トップリーグ」で一人残ることになった。グランプリ大会でのフリーではクリーンに「4-3-3」、つまり4T+3T+3Loを跳んだ。新プログラムは有名なドラマ「ペテルブルク300」の音楽で振り付けられた。

『全部テレビのせいだ。『ペテルブルク300』が出たとき、多くの人と同じように僕も夢中になった。このドラマのイーゴリ・コルネリュクの音楽のCDも買った。車に乗って、このCDをかけると、鳥肌がった…すごく大好きになった。ミーシン・コーチのところに行って、「アレクセイ・ニコラエヴィチ(・ミーシン)、これでなんか創ってみませんか?エキシとか、フリーでも良いんですが」と言ってみた。ミーシン・コーチは、敵意は持っていなかったにしろ、嫌々ながら自分のバージョンを提案してくれた。でもやりはじめたら、音楽に「滑り入る」ことができて、やった、と思った。』




2005年2月。トリノでの「金」の1年前にはもうプルシェンコはビッグスターだった。数多くのショーで滑り、イベントにも参加している。この3度の世界王者は、あまりにもきらびやかな人生に夢中になりすぎていると非難されると、こう答えた。「キャリアを終えたらすぐに忘れられるようにはなりたくない」。それでも彼のプライオリティは、オリンピックであって、しかも、1回だけではなかったのかもしれない。

『プルシェンコが多くの人に飽きられていると知っている。欧州選手権では、フランスのテレビカメラがジュベールの周りを取り巻き、終わりを知らずに撮り続けているを見ていて、それがとても癪に障ると思った。でも、戦うのが好きだ。僕にとっての大きな刺激になっているのは、タイトルだ。お金は別なところで稼げる。』




2006年2月。待ちに待ったオリンピック金メダル!

『ショート前はほとんど緊張しなかった。フリーの演技前の方がよほど緊張した。その日は通常の予定どおりに過ぎたけれど。朝に少し滑って、寝た。リンクへと出発する前には、ホッケーのロシア・スイス戦も見ることもできた。そして、ホッケーでのロシアの勝利に感銘を受けて演技したとも言える。トリノで一番良い演技が見せられたとは言えないけど。単に演技の一つで、特別なものは何もない。』




2009年6月。『金曜日トーク』から多くのことがうかがえる。バンクーバー・オリンピックの計画、数多くの怪我と治療、そして子供じみた悪ふざけ。

『列車の窓からプラットフォームにいる人にきゅうりや卵が投げられる。急ブレーキ。地下鉄にはコインなしで潜り込む。金はない。警察が一部を捕まえるけれど、子供には何ができるって言うんだ?』




2010年2月。オリンピックの2大会連続優勝はならなかった。プルシェンコは、アメリカのエヴァン・ライサチェックに負け、銀メダルを獲得した。2006年オリンピック覇者が、バンクーバーの表彰式で表彰台に呼ばれたとき、まず1位の台に上ってから、2位へと降りた。

『4回転を跳ばないスケーターがオリンピック王者になれる評価システムは、誰にとって都合が良いのか。4回転ジャンプを跳ばない者はオリンピック王者にはなれないのに、そうなった。たぶん、この質問は、このシステムを考えたオッタヴィオ・チンクワンタとジャッジにすべきだろう。この件については何度も意見を述べてきた。どのスポーツも、成長し、前へと進み、発展し、変化する。水泳や陸上では新しい記録が出ている。でも、フィギュアスケートは後退した。4回転、それは多くの体力を奪う、最高難度のジャンプだ。4回転ジャンプの後は、プログラムを演技しながら回復しなければならない。今日は、4回転ジャンプも跳べない者がオリンピック金メダリストとなったんだ!』




2012年1月。プルシェンコは7度目の欧州選手権王者となった。数多くの怪我にもかかわらず、プルシェンコはロシアでのオリンピックでメダルを真剣に獲得するつもりだ。そしてそのメダルは金色でなくてはならない。

『この大会は、時間的に僕にとってとても長いものとなった。まず資格を獲得し、それからショートだけれども、大会期間の間に空白があった。でも、その空白が良い方にいったみたいだ。全てが良い方に働いた。それから、怪我もあった。怪我がなければすべて理想的だっただろう。毎日、「棄権すべきかすべきでないか、できるのかできないのか…」と考えているときは、あるべき自信がなかった。でもそれでもなんとか自分に打ち勝ち、自分に強制できた。
ねえ、ツイッターでとても嬉しいメッセージが届いたんだ。「ジェーニャ、玉座を誰にも渡さないで!」って。それで、今週ずっとそのことだけを考えていた。ポジティブなメッセージがたくさんあって、ネガティブなのは一つもなかった。そして、実際に逆座を明け渡すことはなかった。』




2014年2月。ソチでの金メダルを獲得。プルシェンコは国別対抗戦で合計19点を勝ち取り、優勝に大きく貢献した。しかし、個人の男子シングルが始まる直前に、この2度のオリンピック覇者は再び腰を傷め、大会を棄権した。

『『エヴゲニー、十分だ。十分に滑った!試練はもう十分だ。お前はフィギュアスケートのためにすでにたくさんのことをしてきた』と神様がおっしゃったと思った。たぶん、僕を止めるにはこういうふうでしかできなかったのだろう。』



テーマ: フィギュアスケート | ジャンル: スポーツ

ガチンスキー:結弦がリンクに出てくると、他の選手はみな横になっているかのよう | Home | プルシェンコ:男子SP評:ワールドの男子シングルの争いは真剣だ

コメント

コメントの投稿


非公開コメント