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ミーシンという名の時代(2)なぜ「ベスト・オブ・プルシェンコ」だったのか

昨日の記事の続きです。この記者さんは、プルシェンコには厳し目ですね。

ミーシンという名の時代(1)バンクーバー後のミーシンの変化
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ミーシンという名の時代(3・完)次のオリンピックと引退について


ミーシンと言う名の時代:まだまだ続く


http://sportstories.rsport.ru/ss_person/20150308/812993627.html
アンドレイ・シモネンコ / Sportstories(R-Sport)

続き

もちろん、2002年ソルトレイクシティでも、1994年リレハンメルでも、その他多くの大会でも、アレクセイ・ニコラエヴィチ・ミーシンにとって楽なものではなかった、というのは明らかだ。しかしそういった大会では、ミーシンは、体力的にも、精神的にも、技術的にも準備のできた状態の教え子をリンクに導いてきた。ソチにおいては、エヴゲニー・プルシェンコが理想的な準備ができていたのは、精神面だけだった。精神面はいつでも準備ができている。「体力」と技術について、プルシェンコは自身のライバルたちに目に見えて劣っていた。ミーシンは、これをなんとか目立たないようにしなければならなかった。

昨年のオリンピックシーズン、プルシェンコがフリーで過去の作品のパッチワークを滑ることにミーシンが留めたのは、まさにこの理由によるのではないか。エレメンツ間のつなぎが最小限であり、スピンが凝っていないのが目に入るのは、チームにとってとても不利なことだ。ベスト・オブ・プルシェンコのアイディアによって、観客の無意識に火を点け、最高のプルシェンコの黄金時代の思い出で観客を誘導することができ、またプルシェンコ自身を、彼にとって何でもできた時代に没頭させるさことができた。その時代でも楽ではなかったかもしれないが、少なくとも今よりは何でもできた頃に。

しかし、このプログラムの振付の理由についても、ミーシンはオープンに話すことはなかった。「ユニークなアイディアで、それぞれがこのプログラムの中で、自分の好きなプルシェンコを見つけられるだろう」と彼は語るにとどめ、それ以上のことは考えさせられた。

波瀾に富んだ「ソチのプルシェンコ」の物語が終わり、ミーシンはやっと十分に他の教え子たちの時間をかけることができるようになった。しかし実際、その数は減っていた。チームの最大の喪失はガチンスキーだろう。しかし、彼が去ったことは、それほどまでに残念ではなかったのかもしれない。アルトゥルはあまりに不安定で、というよりも、「マイナス」が付いたまま安定していた。大きな大会でプログラムをクリーンに滑れたのは、もうだいぶ前の話だった。

続く

テーマ: フィギュアスケート | ジャンル: スポーツ

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